写真家のfujigenです。このブログは元夜間警備員時代に見つけた気になる写真を紹介するために開設したものです。
今回は史跡、歴史の写真集です。 写真は 写真素材【PIXTA】と、フォトライブラリー、Adobe stock で販売しています。
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こちらは私が夜間警備員時代に体験したことを
本にしたキンドル本です。
48 日比谷見附跡
見附というのは、おもに城の外郭に設けられた警備のための城門のことで、
江戸城には外堀(外濠)および内堀(内濠)に沿って、赤坂見附を含め
36の見附がありました。
その36の見附の中で、この日比谷御門だけが橋のない枡形門で、
大名小路への出入り口でしたが、明治初期に撤去され、現在は
石垣と塚跡が残っています。
47 日比谷松本楼
1903年に当時の東京市が現在の日比谷公園を開園するにあたり、
銀座で食堂を経営していた小坂梅吉 が落札し、日比谷松本楼として
オープンしたのが始まりです。
珍しい洋風レストランに人気が集まりました。 1923年に関東大震災により焼失し
2代目松本楼がオープン、その後 海軍省の将校宿舎 になったり、
沖縄返還協定反対デモが日比谷公園内で激化し(日比谷暴動事件)、その中で
中核派の投げた火炎瓶の直撃を受け、2代目建物も焼失の憂き目にあいました。
3代目松本楼のオープンは1973年と再建に約2年を要しました。
これを機に10円カレーが始まったことは有名です。
46 日比谷松本楼
45 日比谷公園
日比谷公園は、東京都千代田区にある100年以上の歴史がある公園です。
その始まりは1903年で、2013年に開園110周年を迎えました。
明治30年代、まだ西洋式公園が浸透していなかった時代に
ドイツ留学から帰った本多静六博士の設計案をもとに整備されたのが、
現在の日比谷公園のはじまりです。
この公園の敷地は、幕末までは松平肥前守などの屋敷地でしたが、明治時代に
陸軍の練兵場となりました。
設計当初に作られた大小の野外音楽堂や公会堂は、
当時としてはとても目新しいもので、現在でも広く利用されています。
44 日比谷公園
43 法務省旧本館
法務省旧本館は、千代田区霞が関にある歴史的建造物(重要文化財)です。
1895年に竣工したドイツ・ネオバロック様式の建物です。
基本設計は建築顧問官を務めていたドイツ人建築家「ヘルマン」とされています。
中央合同庁舎6号館赤れんが棟ともいわれています。
42 法務省旧本館
41 日枝神社
江戸城の鎮守と され 江戸三大祭りの一つ、山王祭が行われます。
御祭神は 大山咋神(おおやまくいのかみ) です。
40 日枝神社
39 日枝神社
38 赤坂豊川稲荷
大岡越前守忠相が豊川稲荷から吒枳尼天(だきにてん)を勧請し、屋敷稲荷として
自邸で祀ったのを由来とされています。
大岡家では、三河時代より豊川稲荷を信仰していたといわれ、越前守の時に、
江戸の下屋敷に吒枳尼天を勧請して祀ったといわれます。
その後、大岡家の下屋敷が赤坂一ツ木に移転となり、豊川稲荷も引き続き
移転先の屋敷で祀られました。 明治20年(1887年)、大岡邸の一角では
手狭になり、堂宇の新・増築も困難であることなどから、
現在地(元赤坂一丁目)に移転しました。
37 赤坂豊川稲荷
36 皇居桜田門
桜田門外の変で有名な桜田門です。
1860年3月24日に江戸城に登城するため、大老の井伊直弼の大名行列が
桜田門まであと400mほどのところで、水戸浪士17人と、薩摩浪士1人により
襲撃された事件です。
35 皇居桜田門
34 皇居桜田門
33 皇居桜田門
32 皇居桜田門
31 皇居お堀
30 皇居 和田倉門
現在の和田倉橋がかかっている地区は、江戸時代以前は漁業が盛んな東京湾の
入江に面していました。
江戸時代の初期に海面が埋め立てられ、江戸城へ生活物資を運ぶための荷揚場や
倉庫が置かれるなど、海上輸送の拠点になっていました。
その頃お濠に和田倉橋が架かり、和田倉門が設けられていました
29 皇居前広場 二重橋前
28 皇居前広場 二重橋前
27 迎賓館赤坂
26 東京駅丸の内南口
25 旧近衛師団司令部庁舎
近衛師団は、大日本帝国陸軍の師団の一つです。
一般師団とは異なり、最精鋭かつ最古参の部隊として天皇と皇居を
警衛する任務にあたりまた儀仗部隊としての任務にあたっていました。
最終的には近衛第1師団 ・近衛第2師団 ・近衛第3師団 の
3個近衛師団が編成されました。
現在は警察組織である皇宮警察本部がそれらの役割を担っています。
24 旧近衛師団司令部庁舎
床下空気取り入れ口に配してある五芒星のマーク。
五芒星を魔除けとし利用しているのは、世界中で見られる傾向ですが、
これは西洋魔術の流れをくむ五芒星だけではなく、陰陽五行の五大元素の
五芒星としても同じように用いられています。
それはあの安倍晴明が、陰陽道で五芒星を魔除けとして用いた
例をみても、明らかです。
旧陸軍の帽子や襟章など随所に使用されていました。
23 旧近衛師団司令部庁舎
19 横浜馬車道通り
1859年に幕府が当時100戸程度の寒村であった横浜村に開港場を開き、
ほぼ同じ時期に東海道と 開港場を結ぶ重要なバイパスとして
古道「横浜道」が完成しました。
その横浜道の起終点となる吉田橋に関門が設置され、関門の内側(海側)が関内、
外側は関外と呼ばれるようになりました。
この吉田橋の関門から開港場に至る道が馬車道と呼ばれています。
開港当時、馬車道には多くの日本人と 外国人が行き交っていました。
そこは外国と日本の商取引を行う商社や金融の業務街、経済的な中心地であり、
貿易商 や書画骨董などを取り扱う商店が立ち並ぶ国際街として賑わっていました。
多くの外国人達がこの道を馬車で往来しており当時の人々にはその姿が
とても珍しく、この道が「馬車道」と呼ばれるようになったようです。
18 横浜馬車道通り
17 馬車道通り
16 多摩御陵 八王子市
大正天皇、昭和天皇が眠る墓地です。またパワースポットとして人気もあります。
パワーの強さは明治神宮以上と言われています。
ちなみに明治神宮は明治天皇が祀られています。
昭和天皇陵ができてから武蔵陵墓地と改名されましたが古くからの呼び名、
多摩御陵といわれることが多いです。
八王子八十八景にも選ばれる景色のきれいな広々とした敷地にあります。
14 多摩御陵参道
11 昭和天皇武蔵野稜
10 多摩御陵
9 多摩御陵参道
6 金井原古戦場跡 小金井市
南北朝時代の正平7年(1352)、南朝方の新田(にった) 義貞(よしさだ)の
子義宗(よしむね)・善興(よしおき)等が宗尊親王(むねよししんのう)を奉じて
上野(こうずけ)(現群馬県)に挙兵、武蔵野を舞台に
北朝の足利(あしかが) 尊氏(たかうじ)と戦った。世にいう武蔵野合戦です。
昭和11年3月4日に東京都史跡(昭和30年旧跡に変更)に指定されました。
昭和34年に霊園通りと小金井街道の交差点に写真の
「金井原古戦場」碑が建立されました。
5 旧陸軍浅川地下壕跡
地下壕は高尾駅の南西に、初沢川に沿った小山の山中に掘られています。
規模的には総延長10kmにも及ぶかなり大きなもので、三か所存在します。
浅川地下壕は、当初、陸軍の軍需品備蓄倉庫でしたが、大東亜戦争の末期では
零式戦闘機で有名な中島飛行機の地下工場に利用され、実際に
戦闘機のエンジンが製造されていました。
地下壕はイ地区、ロ地区、ハ地区の3ブロックが造られました。
しかし、このあたりの住宅開発の影響や、地下壕の老朽化などから、
今ではイ地区だけが内部を公開されています。
その他の地下壕は残っているのですが、
住宅や施設の直下にあることから、市は崩壊しないように埋め戻しました。
写真は「ハ」地区です
4 旧陸軍浅川地下壕跡
3 旧陸軍浅川地下壕跡
2 米軍機銃掃射跡 高尾駅
今なお当時のまま残されている高尾駅1番線ホームの米軍戦闘機P-38の
機銃掃射跡跡です。近くにもう一ヶ所所あります。
1 大和田橋に残る米軍焼夷弾跡
甲州街道の浅川にかかる橋に残されている焼夷弾跡です。
この橋には両サイドの歩道にこのほかにも何か所も残されています。
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